鈍感は幸せだ
久しぶりにブログを書こうと思う。
書くネタはたくさんあったが、なかなかブログに手を出す時間がなかった。
前の記事から間も空いたので「である調」に文体を変えてみる。
なんか少し偉そうに見えてしまうが気にしないでいただきたい。
今日はハロウィンにもかかわらず、友達の家で昨日の夜から宅飲みしていて、潰れて寝て起きるというハロウィンらしくない日を過ごした。でもやはりニューヨークのハロウィンは見てるだけでも圧倒されるくらいにはすごかった。
今はニューヨークに住み、主にインターンシップや語学留学などを中心に過ごしている。
8月の間は東欧を中心に数カ国か周り、9月からこのニューヨークに滞在している。
東欧の旅はとても面白く、たくさんの出会いもあった。仲良くなったドイツ人とアウシュビッツを回ったりした経験などはとても貴重なものだった。東欧の国々は物価も安く、人もいいのでとても良い。また行きたい。記録はしてあるのでまた今後まとめられれば。
そして、今過ごしているニューヨークについて。
ニューヨークは本当に興味の尽きない街で、多種多様な人種の人間が住み、道を歩いているだけで様々な言語が聞こえて来る。
今は大統領選挙が近づいていることもあり、学校などではそのネタで話をすることが多い。今年はフィリピンでも大統領選挙を経験してるので、年に二回も大統領選挙を経験できるということはとても貴重なことのように思う。(しかもどちらの候補者も有名)
ニューヨークにはマンハッタン、ブルックリン、クイーンズの三つの地区に分かれていて、それぞれ全く違った顔を持っている。
マンハッタンに学校があり、クイーンズに家とインターン先があり、ブルックリンには安い映画館とお気に入りのお店があるので、満遍なくその三つの地区を行き来して入りのだが、その三つの地域は本当に異なっていて、まるで3カ国を地下鉄を乗り継いで移動しているような気分を味わうことができる。
ちなみに僕の住んでいるところはインド人が多いところで、少しインド風の懐かしい香りが駅前を中心に漂っていてる。いわゆるニューヨークらしさはないところだが、とても静かで住みやすい地域。
物価に関しては、やはり少し高いが節約さえ心がければ日本と過ごすのとあまり変わらない。
特に高いのは、チップが必要なレストランやタバコ。高すぎて手が出ない。
でも映画や古着などは場所にもよるが、驚くほど安かったりする。あとビールやワインなど低アルコールの飲料は安め。ブルックリンにはB級映画を5ドルで観れる映画館などもある。最新映画でさえも、曜日や時間限定で9ドルで見ることができる。
そして、ニューヨークが舞台になった映画は数え切れないくらいにあるので、街を歩いているだけで映画の舞台に飛び込んだような気分にもなる。
そして、この街の人間の多様性を見てしまうと、人種差別などをしている人間がとても惨めに見えてしまう。世界にはたくさんの種類の人間がいるという「現実」をこの地では目の当たりにすることができる。その世界の広さを小さなこの街で感じれるのがニューヨークのいいところだと思う。
正直な話ニューヨークに来てから観光地になかなか行くことができていない。しばらく滞在するからということで後回しにしているので、今後はしっかり訪問したい。
ここからは自分の話。
今年の4月から書き始めていた小説がようやく先日完成した。
7月に一度全部消してから、3ヶ月で原稿用紙約230枚7万8000文字を書き終えることができた。
人生で初めてしっかり最後まで、原稿用紙200枚を超えるものを書き終えることができたことにとりあえず安心する。
書いている途中は何度も挫折しそうになり、自分は「小説家になる」と言うだけ言っておいて、その最低限のラインにすら立つことのできない口だけ人間ではないか、と思うこともあった。だから嬉しいとかというよりはホッとする部分が多い。
何人かの友人や、尊敬する方々にも読んでいただいて、良いフィードバックもいただけたことをとても感謝している。
とりあえず完成した小説の行方が今後どうなるのかとても楽しみだ。
将来的に、たくさんの人の手に取ってもらえるようになることを心より願う。
そして次のものも書いていきたい。
そして、この約半年間、小説を書いていて強く思ったことがあった。
「鈍感は幸せだ」
ということ
かなり改変はしたものの、今回物語を書くにあたって、自分の経験したことを元に書いた。
元々自分はとても鈍感な人間で、今まで物事に対してあまり深く考えようとしてこなかった。
しかし今回は、自分の過去の経験、その大雑把に処理した過去の記憶を、一本一本紐解くように繊細な心で振り返った。
すると、特に悲しかった出来事に対して、今振り返って考えた方が、過去にリアルタイムで感じていた自分よりも深い悲しみを感じた。
小さなことでもくよくよしてしまい、立ち直れなくなりそうにもなった。
そう、つまり鈍感であったほうが幸せだった。
物事に対して深く考えず、簡単に忘れてしまえた方が楽だから。
偉大な芸術家で自殺をする方が多くいるが、それは彼らが繊細すぎるからではないだろうかと思う。その繊細さゆえに、彼らには世界が違って見えたのだ。だから同じようなものを見ていても、繊細な彼らはそこから多くの物事を感じ取り、偉大な作品を作り上げた。
また、苦しみから逃避してしようとして、酒や薬などに溺れてしまう人間も、確かに弱い人間かもしれない。しかし、彼らの繊細さゆえ、悲しみを忘れることができず、その記憶に蓋をすることができず、自分の頭の中から無理やりそれを抜き取るために、そのような世間的に悪行と言われることに陥ってしまう。
もちろん繊細な人間は深く感じることができるから、喜びも鈍感な人間よりも感じることができる。しかし、残念ながら喜びには限度というものがあると思う。だから喜びに関して言えば、繊細な人間も鈍感な人間もそれほど差がつかない。しかし、それに対して、悲しみには限度がないのではないだろうか。喜びには天井があるが、悲しみは底なし沼だ。そして、天井から落ちるのは簡単だが、その沼から這い上がるのはとても難しい。
しかし、だからと言って鈍感が良くて繊細が悪いという話ではない。
不幸でもいいから繊細であったほうが、人生において感じる事は多いのかもしれない。
普遍的にどちらが正しいかなんてことは決めることはできない。
うまく使い分けることができればベストだが、皮肉なことに人間はそんなにうまく作られていないとは思う。
だから何、といことはないのだが感じたことを書いてみた。
なんかくそ真面目に なっちゃった笑
中欧の写真を何枚か、ニューヨークはまた今度で。
また書けたら書きます。
スピシュ城
レボチャ