冒頭

結構昔の新人賞に送ったけど何もなかった小説の文頭をブログに載せてみる。

 

  僕はきつく目を閉じる。光の残像が、瞼の裏に出来損ないの星座を作った。

「いくよ。さん、に」

 ガチャン、という無機質で乾いた、バネとプラスチックのぶつかる音がする。針が肉を貫く音は聞こえない。

 左耳に電流が走る。その刺激が身体中でスパークし、呼応するように身体中が小さく震えた。彼女の手を握る右手に、ぬるい汗が滲んで力が入る。左の頬を一筋の生暖かい涙が通った。その痛みを感じた瞬間、自らの「生」というものを強く感じた。数時間前まで死ぬことだけを考えていた。その分強く感じるのだろうか。

 腕時計を見ると、零時ちょうどを指している。この音と痛みは、僕に十代の終わり、そして、二十歳の幕開けを告げる。

 僕は自らの体に穴を開けた。これが何を意味するのだろうか。それで何かが変わるのだろうか。でも何かを変えたいとは強く願う。  

 大人になることとは真逆の行為だと思えた。では大人とは何なのだろう。

 「泣いてるじゃん。痛かった?」

 彼女は僕の涙を人差し指で掬う。ぼやけた視界が晴れ、額にしわを寄せた心配そうに僕を覗き込む彼女が見えた。

 「いや、なんか思っていたよりは痛くなかったんだけどね」

 僕は未だに故郷の関西弁のイントネーションが残る、中途半端な標準語で返した。上京して一年と少し経った僕は、標準語に方言のイントネーションの残る、中途半端でぎこちのない標準語を操るようになっていた。

 「久しぶりだからでしょ。でもね。さん、に、いち、ゼロの『ゼロ』のタイミングで開けちゃうと、身構えちゃうかなって思ったからさ、意表をついて『さん、に』のタイミングで開けたの。そのおかげであんまり怖くなかったでしょ? そこがポイントなの」

 彼女は目尻に濃い皺を寄せいかにも得意そうに笑った。そして、僕の耳に穴を開けたピアッサーをゴミ箱に投げ入れ、「よしっ」という小さなガッツポーズを作った。僕は彼女の名前を呼ぼうとする。でも僕はその名前をまだ知らなかった。

「ありがとう」 

 僕は目尻に皺を作って答える。今までいつもこんな風に無理に笑ってきた。でも、もうこんな笑い方はしなくてもいいのだと思った。

 僕はこの穴を開けたことで、昔の誰にも拾われなかった頃の自分に戻ってしまったような気がした。でも、もうそんなことは気にしなくていいのかもしれない。二十歳になった今はもう、一人でも生きていける。生きていくためにかつてのように自分を殺す必要もないのだ。

「やっと開けられたね」

 名前の知らない彼女は、慣れた手つきでタバコに火をつけ一口吸った。煙が宙をゆらりと舞う。その微かに甘い煙が、殺風景な僕の部屋に色をつけた。タバコの吸い口には深紅の口紅が付いていて、部屋の明かりに照らされ、艶やかに輝いている。

 「一口欲しい」

 僕がそう言うと、彼女は歯型が付くほど強く噛み、米粒のような楕円型になったタバコのフィルターを、僕の口に差し込んだ。僕は酸素を欲しがる死にかけのランナーように、思い切りそれを吸い込む。鈍い痛みを伴う煙が肺の中を侵した。

 彼女は自分用に買ったピアッサーの封を開ける。それを自らの右耳の軟骨あたりにセットした。そして、何の恐れもないかのように、ピアッサーを勢い良く押し込む。綺麗な陶器のような、白くつるりとした額に、わずかに線が寄っただけだった。僕はこんな一瞬で終わる作業のために、こんなにも長い時間がかかった自分が少し、恥ずかしくなった。

 「何か変わった?」

 彼女はにしゃりと笑い、大きな目を一歩の線のようにそばめ、僕に聞く。

 「わかんない」

 僕は情けない笑みを浮かべ答える。でも一つだけ、確かなことがあった。

 「もう死にたくない」

 彼女は温かい手が、優しく僕の頬を撫でた。